kiligihiii’s diary

ぼくは十分に速くあったろうか

『悪童日記』三部作がメチャクチャ面白かったこと

 

悪童日記 (ハヤカワepi文庫)

悪童日記 (ハヤカワepi文庫)

 

 

ふたりの証拠 (ハヤカワepi文庫)

ふたりの証拠 (ハヤカワepi文庫)

 

 

第三の嘘 (ハヤカワepi文庫)

第三の嘘 (ハヤカワepi文庫)

 

※ネタバレします。 

 

アゴタ・クリストフの『悪童日記』三部作を読みました。評判は前から聞いていて、いつか読みたいと思っていた小説です。読んでみるともう本当に面白くて、それぞれ1日で読んでしまいました。私は読むスピードはそんなに早い方ではなく、2週間とか1ヶ月くらいかけて読みます。でも、今回は小説が持つ面白さと、あと読みやすい文章ですね、その2つでグイグイ読んでしまいました。

とりあえず1作目『悪童日記』のあらすじですが、戦時中に双子の男の子が祖母の家に預けれられるところから話が始まりまして、そこで2人がたくましく生きていく、というものです。筋としては簡単なものですが、注目すべきは強烈は登場人物です。タイトルにあるとおり「悪童」な双子(私は2人のことを悪童とは思いませんでしたが。「悪童」といわれるくらいはちゃめちゃ、という感じです。『ハプワース』のシーモアくらい頭がいい)と、これまたワイルドなおばあちゃん(『天空の城ラピュタ』のドーラのイメージを持っています)、薄幸の<兎っ子>、憎めない従卒など、出てくる人物がいちいち魅力的です。戦争の悲しさと子どものイノセンスがあいまって胸にグッときました。
戦争という悲劇的な舞台設定はもちろんのことですが、この悲しみを際立たせているのはアゴタ・クリストフの文体だと思います。短く、修辞のない簡潔な文章で淡々と綴られており、この物語にすごくあっています。アゴタはハンガリーからの難民としてフランス語を使わざるをえなかったのですが、母語でないことの縛りが(もちろん私は和訳で読んでいますが)作品に効果的な影響を与えたのは、皮肉というかなんというか。

で、『ふたりの証拠』『第三の嘘』と続くのですが、『ふたりの証拠』の終盤で物語の構造が明らかになってきます。ざっくりいうと、『悪童日記』『ふたりの証拠』は双子の片割れであるリュカの作り話です。2人は幼い頃に生き別れになり、リュカは寂しさを紛らわせるため、また双子のクラウスのために『悪童日記』『ふたりの証拠』を書くのでした。
リュカは自身の実体験を元『悪童日記』『ふたりの証拠』を書きます。実体験は『第三の嘘』の前半で描かれます。『悪童日記』『ふたりの証拠』で描かれた人物やエピソードが異なる形(でも似た形)で登場します。物語上は『第三の嘘』が現実なのですが、私(読者)としては、先行する『悪童日記』『ふたりの証拠』の記憶が強烈に残っていて、『第三の嘘』はパラレルワールドを見せられている感覚を持ちます。アゴタの自伝『文盲』でも『悪童日記』三部作の元になったようなエピソードが綴られていまして、なにがオリジナル・現実の話なのかわからなくなってきます。また、物語にのめり込んでしまうと、そいういうことは些末なことで、どうでもいいことなのだという気になってきます。

文盲: アゴタ・クリストフ自伝 (白水Uブックス)

文盲: アゴタ・クリストフ自伝 (白水Uブックス)

 

ただ、『第三の嘘』のあとがきで訳者が「『第三の嘘』は種明かしになっているのか、否、そうではないだろう」と書いていますが、私はそこは『第三の嘘』があの物語上の現実(種明かし)でいいんじゃないかと、素直に読んでいいのはないかと思います。「嘘」はp123にあるものでいいかと思うのですが.......。

 

話は逸れますが、この作品を読んでいて思い出したのが『ゼルダの伝説 ムジュラの仮面』というゲームです。2000年にNINTENDO64で発売されたゲームで、舞台は前作『ゼルダの伝説 時のオカリナ』のパラレルワールドなんです。なので、『時のオカリナ』の懐かしい面々が違う役割を与えられて主人公(プレイヤー)の前に現れます。知っているキャラクターが出てくる懐かしさだけでなく、「自分だけが彼らを知っていて彼らは自分を知らない」というシチュエーションに、(良い意味で)胸が詰まる思いをしました。
私はこのゲームが大好きだったのですが、『第三の嘘』のパラレルワールド感から『ムジュラ仮面』を思い出したのでした。わかりにくい例えですみません。 

ゼルダの伝説 ムジュラの仮面 3D

ゼルダの伝説 ムジュラの仮面 3D

 

 

本当に愛されること ・愛すること

閑話休題。いつものようにまとまりがつかなくなってきましたが、三部作の中で私が一番好きなのは2作目の『ふたりの証拠』です。『ふたりの証拠』は、『悪童日記』のラストで双子が別れた後の片割れであるリュカの物語です。これが本当に悲しい物語なのです。ひとりになったリュカは孤独な生活を過ごします。途中で不具の子どもマティアスとその母ヤシミーヌと共同生活を送ります。後にヤシミーヌはいなくなり、リュカとマティアスは二人で生活するのですが、マティアスは不具であること、また自分がリュカの息子ではないから愛されていないと思い、「本当に愛されること」を求めます。ヤシミーヌも、戦争で夫を亡くしたクララも、リュカもだれもが愛を求めるのですが、うまくいかないのですね。
文体と語りの形式が斬新な『悪童日記』、物語の「真相(先にも書いた通り、真相はある意味どうでもいいのですが)」が描かれる『第三の嘘』の間にはさまれて『ふたりの証拠』は目立たない作品かもしれませんが、私は一番心が震えましたよ。

 

「たくさんの女性が、行方不明になった夫を待ったり、あるいは死んだ夫のことを悲嘆したりしています。でも、あなたは、今しがたおっしゃいましたね。”苦しみは減少し、記憶は薄れる”って」
不眠症の男は、眼差しを上げてリュカを見る。
「そう、確かに私は、減少する、薄れるといった。しかし、消え失せるとはいわなかったよ」
p185

 

だけどリュカは、彼女の弟が好きなんだ。さっき三人で台所に来るのを見て、ほんとうの家族とはどういうものか、ぼくにもわかったよ。ブロンドの髪を持つ美しい両親と、ブロンドの髪を持つ美しい子供......。ぼくには家族がないんだ。ぼくには母もいなければ、父もいない。ぼくはブロンドじゃない。ぼくは醜くて、不具だ。
pp258-259

 

この子をこんな所に残して、夜の闇のなかでひとりにしてはおけない。この子は夜が怖いんですよ。まだこんなに小さいんだから
p265

 

われわれは皆、それぞれの人生のなかでひとつの致命的な誤りを犯すのさ。そして、そのことに気づくのは、取り返しのつかないことがすでに起こってしまってからなんだ。
p265

 

ペテールは、骸骨の下の藁布団を照らす。
「彼がいつも眠ったのは、ここなんです」
クラウスは、藁布団と、それを覆っている軍用毛布に触れる。
p289

 

悲しみだけでなく、リュカと不眠症の男が出会うシーンがすごく自然で唸りましたし(物語の都合で作者が登場人物を動かそうとする意図が感じられない)、本を書こうとする男の狂気も印象に残りました。

 

雑誌『考える人』より:海外の長篇小説ベスト100

『考える人』という雑誌があります。2008年の春号で「海外の長篇小説ベスト100」という特集があるのですが、私はこの特集を気に入っていて、今でも折を見て読み返します。*1

www.shinchosha.co.jp

特集では作家や批評家、その他著名人129人が個人の長篇ベスト10をあげ、それを集計してベスト100を作ろうというものです(ちなみに1位は『百年の孤独』)。あらためて『考える人』を開くと三部作の中でベスト100に選出されているのは『悪童日記』だけです。選出者は全て女性です(小川洋子恩田陸松永美穂山崎ナオコーラ)。「三部作」という意味で『悪童日記』をあげたのでしょうか、129人もいてひとりも『ふたりの証拠』がないのは残念というかなんというか、「ムムム」なってしまいました。私が読後すぐで頭に血が上っているだけなのか、いやそうではない。

*1:2007年の短篇小説特集も好きです。

私的くるりのこと

 

くるりのこと

くるりのこと

 

くるりデビュ−20周年の記念本『くるりのこと』を読みました。出版されてからすぐに読みまして、こう書くと、くるりの熱心なファンのようですが、とくにそいういうわけではありません。自分で買ったアルバムは2枚で、初のベストアルバム『TOWER OF MUSIC LOVER』と、(多分)ベストアルバムの次に出たオリジナルアルバム『ワルツを踊れ』です。この時期はわりとよくきいていて、「ふれあいコンサート」と「デラぜっぴんツアー」にもいきました。
こう書くと、くるりに興味のない人からすると熱心なファンですね。

で、それ以降は、とくに理由はなく、なんとなく離れていったのですが、近頃はメンバーの入れ替わりが(前にも増して)激しかったり、『Liberty&Gravity』という曲のPVが一部で話題になったりで、くるりのニュースが耳には入ることもあったので、ちょくちょくヴォーカルの岸田繁Twitterを見ていると『くるりのこと』を紹介していたので、ちょっと懐かしくなったわけです。だから買ったのでした。


くるり-Liberty&Gravity / Quruli-Liberty&Gravity


ということで『くるりのこと』ですが、内容や感想はとくに書きません。ざっくりいうとファン本です。思い入れのある人(思い入れのあった人)にはオススメです。私は読んでよかった。最近のアルバムもきいてみたい。今はベストききながらこの文章を書いてます。

くるりを知ったのは、たしか、友人の姉がくるりを好きだったことがきっかけでした。クリストファーがドラムをやっていた頃だと思います。私はそこではすぐにきかなくて、ベストアルバムが出た時に、財布にお金もあったし、ちょっと気になっていたので買ったのでした。「ハローグッバイ」とか「リバー」とか、「ワールズエンド・スーパーノヴァ」とか、ベストということもあっていい気曲が多くて気に入りました。

くるりはメンバーの入れ替わりが激しいバンドで有名です。アルバムの雰囲気もそれぞれ全く違います。音楽的には詳しくないのでわかりませんが(『くるりのこと』では音楽面での話も大いにあります)、私は、くるりのそういった変化し続けるとところは好きです。ずっと変わらないメンバーでロック一筋、も魅力的ですが、常に落ち着きなく動いている感じも魅力的です。どちらも表現する形は違うものの、彼らの持つこだわりが人を引き付けるのでしょう。最近、岸田はバンド活動と並行して大学で先生をしたり、交響曲を書いたりしています。本当に音楽が好きなんだなと感心します。ただの音楽好きの兄ちゃんだと思っていましたが、「モノホン」の音楽好きの兄ちゃんだったようです。

 

ということで、『くるりのこと』をきっかけにくるりの思い出を書いた日記でした。

ガルシア=マルケス『生きて、語り伝える』の感想

 

生きて、語り伝える

生きて、語り伝える

 

列車は町のないところに作られた駅に停車し、それからしばらくすると、道中でただひとつ、名前が入口の門のところに書かれているバナナ園の前を通った-マコンド、とあった。
p35 

そのころの私は、シェヘラザードが語る驚異が、彼女の時代には日常の中で実際に起こっていたのだと考えていて、それ以後の時代の、リアリズムばかり重視するようになった人たちの疑い深さ、勇気のなさのせいで、そうした出来事は起こらなくなってしまったのだ、と思っていたのである。それゆえに私には、絨毯に乗って町や山の上を飛ぶとか、カルタヘーナ・デ・インディアスの奴隷が罰として二百年瓶の中に閉じこめられる、といったことを現代の人間がふたたび信じるのは不可能だと思われた。そのためには、読者にそれを信じさせる力がその物語の作者になければないのだ。
p308

ガルシア=マルケスの自伝『生きて、語り伝える』を読みました。読みました、と言っても、全部で600ページくらいのところを実は半分ほどしか読めていません。図書館で借りたのですが、返却期限日の前に読みきれなかったのです(貸出更新もしたのですが)。他に読みたい本もあるし、ちょっとダレてきたので、読んだところまでメモしておきます。出生から最初の短篇を発表したあたりまで読みました。

ガルシア=マルケスの自伝ということですが、どうやら本書で完結しておらず、第2部を書くつもりだったようです。それを知らなかったので、この本で『百年の孤独』の着想から完成までがドラマティックに描かれるのかなぁと期待していたのですが、そこまではいかないことを途中で知って少し残念でした。。。

私が読んだガルシア=マルケスの作品は『百年の孤独』『予告された殺人の記録』『コレラの時代の愛』の3つで、やはり『百年の孤独』が一番好きです。ベタな感想ですが、これまで読んだ小説とは違う雰囲気に圧倒されました。虚構入り乱れた登場人物・逸話にむせかえる思いをしたものです。

ただ、本書を読んでいると、『百年の孤独』は、彼による全くの創造した世界ではなかったことがわかります。当時のコロンビア(少なくとも彼のいた周り)には「『百年の孤独』的世界」があったようです。ここでは多くを列挙はしませんが、呪術師の悪魔払いによってシーツから鳥が飛び出してくるし、小さな女の子が漆喰をはがして食べます。見世物小屋ではコオロギがリズムに合わせて歌い、逆立ちをします。どこまで本当かわかったものではないですが、着想のヒントはあったのでしょう。
ジェイムズ・ジョイスが「想像力とは記憶のことである」といっていたと、村上春樹の本に書かれていたのを思い出して(正確な書き方は曖昧です)、ムムムと思った次第です。

母は蜜月を過ごしたリオアーチャの家のことを懐かしく思い出しては語って聞かせたので、私たち年長の子供たちはその家の様子を一部屋一部屋、まるで自分でそこに住んだことがあるかのように、生き生きと思い描くことができた。それは今なお、偽の記憶として私のなかに刻みつけられている。
ところが、六十歳になる直前のころ、生まれて初めて実際にラ・グアヒーラ半島を訪れた私は驚いた。電報局の建物は、私の記憶のなかの建物とはまるで似ても似つかないものだったのだ。また、子供のころから心のなかに抱いてきた牧歌的なリオアーチャのイメージ-硝石の浮かび上っている道が泥色の海まで続いている-は、祖父母から借りた幻でしかなかったのである。というか、現実のリオーチャの町を経験として知っている今となっても、私はその町を現実にそって視覚化することができず、脳裏に浮かんでくるのはむしろ、想像の中で石をひとつひとつ積み重ねて私がこしらえた町のほうなのである。
p92

 

 本書を読んで一番印象的だったのは、文学仲間に恵まれた彼の環境です。彼は中学生(?)の頃に寮に住んでいて、夜にみんなで本の朗読を聞いてから寝るという習慣があったそうです。しかも『魔の山』が好評だったとのこと。よく知りませんが、「旧制高校」的なノリでしょうか。私もみんなで『魔の山』を読みたかったなぁ。

いまだに納得がいかないほどの大成功を収めたのはトマス・マンの『魔の山』で、ハンス・カストルプとクラウディア・ショーシャがキスするのを待って全員が徹夜しそうになり、校長の介入が必要になるほどのである。また、誰もがベッドにすっくとすわったまま、ナフタとセッテムブリーニの間の支離滅裂な哲学的対決をひと言も聞き逃すまいと張りつめて聞き入ってたあの常軌を逸した緊迫感も説明不能である。その晩の朗読は一時間以上に延び、寄宿室では拍手喝采の嵐によって締めくくられた。
p277

 

他にも色々と愉快な昔話が続くのですが(色恋事情もなかなかワイルドです)、いささか長大に過ぎるのは否めず、すこし疲れてしまいました。巡り合わせがあれば、続きを読みたいものです。

『『ユリシーズ』と我ら』の感想

 

『ユリシーズ』と我ら―日常生活の芸術

『ユリシーズ』と我ら―日常生活の芸術

 

ユリシーズ』は、普通の人々が毎日送っている生活の現実を祝福するために書かれた。
p24

  『『ユリシーズ』と我ら』を読みました。2011年に出版された本で、当時から装丁のかっこよさに惹かれていました。章のタイトルが「いかに『ユリシーズ』は我々の生活を変えなかったのか」「それでもなお、いかに『ユリシーズ』は我々の生活を変えうるか」と、なかなかにかっこよかったのも惹かれた理由です。どうもタイミングがあわずに今日まで来てしまったのですが、やっと読めた次第です。

タイミングのあわなかった本をここに来て読んだ理由ですが、最近、『ユリシーズ』の著者であるジェイムズ・ジョイスの『若い藝術家の肖像』を読み返しまして、それが面白かったので次はジョイスの一番有名な作品である『ユリシーズ』を読もうと思ったわけです。ただ、他にも読んでる小説があるし、『ユリシーズ』は長いし、以前に読んだときは(一度だけ読みました)理解できない部分もあったので、今回は『ユリシーズ』をもっと楽しめるように準備をしようと思ったのでした。

ということで『『ユリシーズ』と我ら』ですが、本書は18章で構成される『ユリシーズ』を各章に沿って丁寧に解説しています。あぁこんな話があったなぁと思い出しながら読みました。付箋を貼ったりメモもとらずにスーッと、フムフムと頷きながら読んだので、「この部分の〇〇が〇〇だった」みたいな指摘はできませんが、『ユリシーズ』に詳しい人と一緒に読んでいる感じで楽しかったです。

ユリシーズ』はホメロスの『オデュッセイア』を下敷きにした作品です。なので『オデュッセイア』の知識があったほうが楽しめるのでしょうけど、私は『オデュッセイア』を読んだことがありません。本書を読みながら、『ユリシーズ』を再読するのはやっぱり『オデュッセイア』を読んでからがいいなと思いました。
あと、シェイクスピアの『ハムレット』について語る部分もあるのですが、恥ずかしながら『ハムレット』も(というかシェイクスピアの作品自体)読んだことがないので、こっちも読まなきゃなぁといった感じです。

こうしてみると『ユリシーズ』を芯の部分で楽しめてない気がしますが、私は、主人公のレオポルド・ブルーム(中年のおじさん)とスティーヴン・ディーダラス(悩める青年)が、それぞれの暮らしに思うところはあるのの、なんとかダブリンの街で生きる様がいいなぁと思っていました。*1二人はとくに親しい間柄ではないのですが、終盤に話をする場面があってブルームがスティーヴンを励まします。親しくない間柄だからこそ話し合えることもあるのかなと思います。私は年齢的にはスティーヴンに近いし、彼が主人公の『若い藝術家の肖像』が好きなので、以前に読んだ時は『ユリシーズ』でもスティーヴンに目がいきがちでしたが、今回はブルームの哀愁と優しさに目を向けることができました。

−でも実質的な飲料だよ、と彼の守護神は言い張った。ぼくは実質的な飲食物の信奉者でね。その唯一の理由は決して満腹したいからではなく、精神的であれ肉体的であれ何かの仕事をやりとげるためには、ちゃんとしたものを食べることが《必要不可欠》の条件なのです。君はもっと実のあるものを食べなさいよ。別人のようになるから。
ユリシーズ』Ⅳ p61

ユリシーズ〈4〉 (集英社文庫ヘリテージシリーズ)

ユリシーズ〈4〉 (集英社文庫ヘリテージシリーズ)

 

 これは16章「エウマイオス」にて、ブルームがスティーヴンを励ますシーンです。次の17章「イタケ」で二人は別れるのですが、「イタケ」は文体が変わっていて、第三者が二人の様子を報告しているような書き方なのです。「二人は何をしていたか。」「はい、二人は星を見ていました」みたいな(実際はもっとこねくり回した感じです)。なので、二人の会話がないのがちょっと残念です。多分、二人はいい感じの会話(言葉数の少ない会話と想像する)をして別れたと思うのですが...。 

 

ということで、というか、なんというか、まとまりがつかないですが、私にとってまだまだ謎の多い『ユリシーズ』、これからものんびりと付き合っていきたいと思います。 

*1:「スティーヴン・ブルーム」という声優がいるらしい。悟空の声とかしている。

翻訳でしか読んでませんが...

Twitterで流れてきた論文が面白そうだったので読みました。

ci.nii.ac.jp

私は海外の小説を読むのが好きで、これまでずっと翻訳で読んできました。*1

日々、楽しく読んでいるのですが、「原書で読めればなぁ」と思うことが少なくありません。知り合いに好きな小説をきかれても、「翻訳でしか読んでませんが...」と言ってしまうことがあります。最近はとくにそんな気がします。

この論文で面白かったのは「純粋言語」という考え方です(ベンヤミンという人が提唱した概念とのこと)。これまでの日本の英語教育・英米文学教育では「原書で読むべし」という考えが主流であったけれど、海外の大学では必ずしもそうではなくて、原書だけでなく翻訳ものや映画等の派生した作品も使って鑑賞するそうです(原書をおろそかにするということではありません)。そうすることで作品自体も「熟していく」。あらためていわれるとなるほどなと思います。 著者の授業も面白そうです。

いつか原書で読みたいなぁと思いながらも、読みたい小説がなくなりません。そろそろ読み方を変えたほうがいいかなと思っていたところだったので、ギクッとしたのでした。

*1:不思議の国のアリス』と『鏡の国のアリス』だけ原書で読みました。